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1月17日(火)、昨日は午後から雨になったが、打って変って快晴、日の出が素晴らしかった。ブログは11月3日の「唐津つくんち」以来二カ月あまりアップしていない。ときどき会う知人が「どうしたんだ。体調でも悪いのか」と言うので復活することにする。先ずは11月のサマリーから始めることに・・・・
11月4日はお世話になったNさん宅を8時過ぎに出て、七山経由で古湯温泉へ。先生が親しくしている鶴霊泉で一風呂浴びてアルコール分を抜いてから佐賀駅まで送ってもらう。11月も12月も出掛けることが多く、また、土地の名義変更の手続きやリフォームの見積もりなどで気持ちが落ち着かず、PCにゆっくりと向かう気分にならなかった。その上11月に入るとPCのモニターの画面が暗くなりそのうちちらちらするようになる。さらにプロバイダーのbiglobeでのメールが繋がらなくなった。引越しで書類を入れたファイルが行方不明になったままですぐには修復できない。大村のベスト電器にモニターのことを頼んだのだが、対応が遅く代わりのモニターが届いたのは12月も終わりに近かった。それまでの期間は、画像の検索も文章を打ち込むのも画面が暗くて見えづらく、作業の能率は格段に悪かった。 11月7日は、吉田さん一家と笹栗さん詣でをしてから、飯塚のKさんの山荘を訪ねた。数寄屋造りの凝った家で、茶の湯を意識したつくりになっていて、調度品も素晴らしかった。人間国宝クラスの陶芸家がつくった茶碗でお茶をいただく。池田満寿夫が描いた華やかな屏風が、茶室の控えの間に置いてあった。帰りには茅葺の和風レストラン“茅乃舎”に寄って珈琲を飲む。レストランは満席状態だった。 11日は、突然武田先生から電話があり長崎へ。五島嵯峨の島の漁師の小出さん(四十数年前からの先生の知人)が、歯の治療のため長崎に出て来ているから一緒に飲もうということになったのだ。僕も十年ほど前一度嵯峨の島の撮影でお世話になったことがあった。武田先生は前日から出て来ていて、主治医の角町先生と三人で飲み歩いたらしい。正午ごろ長崎駅に着くと先生が車で迎えに来てくれ、小出さんの定宿の県庁近くのサウナへ回って、三人で賑橋近くの共楽園へちゃんぽんを食べに行く。その後伊王島へ新しい橋を渡って行く。小出さんは二日酔いらしく元気がない。大村湾に面した長与の温泉・喜道庵を覗いたりして時間を潰して長崎に戻り、サウナの前の韓国焼肉店・ローランで落ち合う。散髪に出掛けた小出さんが戻るのを待って、銅座へ繰り出す。先ず知り合いの“ワインバー田舎”へ。マスターは佐田まさしのコンサートに行ってるとかで8時ごろにならないと戻ってこないと。奥さんの幸恵さんも来ていると。小出さんの娘さんも参加して4人でワインや焼酎を飲む。僕はマスターと奥さんが戻ってくるまで残って、仲間内のライブを聴いてから最終電車で大村へ。 11月12日は、太良町環境協会主催の「多良海道をさらく」に連れ合いと参加。太良町と鹿島市の境界の矢答(標高400mあまり)までバスで移動。そこから太良町役場まで蜜柑畑の中や植林の間を歩くことになった。沢沿いの林の中にイノシシのぬた場があった。鹿島市から太良町の有明海に面した丘陵地帯は、40年ほど前、国の肝いりでミカン栽培のパイロット事業が行われ、雑木林や畑が次々とミカン畑に変わって行った歴史がある。しかし、過剰生産と輸入自由化によって価格は暴落して、栽培面積は現在は最盛期の五分の一までに減少していると。そのためかミカンは枝もたわわに生っているのに放置されているところが目立った。植物に詳しい渡辺さん(多良・金泉寺の管理もやっている)が参加していて、植物の名称をいくつか教えてもらった。 16時ごろ図書館の前で記念写真を撮ってから解散したが、電車まで時間があったから、堤防のところに腰をおろして蜜柑を食べていると、軽トラックが停まて網袋と肘まである長い手袋をもった男性が降りてきて、階段を下りて干潟へ向かって歩いて行った。何を捕りに来たか興味があったので、双眼鏡で覗くと、石をおこして何かを掴んで袋に入れていた。どうもカニのようだった。20分ほどしたら戻ってきたので、網の中身を見せてもらったら、モクズガ二が数匹入っていた。「どこからですか?」と尋ねると「七浦から、今夜の焼酎のつまみにすると・・・」と笑って答えた。秋になるとモクズガには海に下って産卵するから、メスには卵が詰まっていて美味なのだ。 家に戻って夕食の準備をしていたら、吉田さんが五家荘のもろみ漬けの豆腐と孫会長の叔母さん(90歳前後の)がつくったというキムチ(飯塚のKさんが送ってくれた)をもって来てくれた。豆腐はちょっとしょっぱいがチーズのようで、酒の肴には最高だと思った。早速日本酒を飲みながら舐める。
11月3日(木)、今朝は7時過ぎに起きて朝飯を食べて、唐津くんちに行く準備をする。E5に11~60ミリズームを付けたのとペンタックス645Nに45~85ミリズームレンズを付けたのと45ミリF2.8レンズももって行くことにする。フィルムは220と120を数本と予備のフィルムパックも2個。予備の電池やCFカード(4GB)を2枚。双眼鏡と望遠ズームもザックに入れる。泊めてもらう波川家でひょっとしたら寝袋がいるかもしれないと武田先生が言うので、羽毛の封筒型寝袋も詰め込む。ザックは重いうえにパンパンに膨れ上がった。9時半に久保田駅で武田先生の車にピックアップしてもらうので、9:03の電車に乗らなければならない。8時半に重いザックを担いで自転車に跨り駅へ向かう。
![]() 今日はバルーンフェスティバルがあっているから、鹿島駅のプラットホームは子ども連れの人たちで溢れんばかりだった。乗れるのかなと心配していたら、電車は6両編成だった。先生から大川で長谷川さんを拾って久保田駅へ向かっているが、混んでいるので着くのは30分を過ぎるかもしれないと電話がある。電車も数分遅れていたので、食お他駅の改札口を出てたら先生はもう着いていた。長谷川さんに初対面の挨拶をする。彼は大川出身でイタリアのトリノに住んで木彫をしている彫刻家だった。若いころヨーロッパに憧れ上京し、ヨーロッパへ渡るコネを捜していて、たまたまイタリア女性と知り合い、アタックして結婚まで漕ぎつけ夢をジルゲンした幸運な人のようだ。お母さんが高齢なためここ数年は、1年の半分は大川の実家へ戻って親孝行をしているのだそうだ。勿論彫刻刀と素材はもってきていて、実家の台所で製作kしていると。 多久市をを抜けて相知町を過ぎしばらく走ると山本に出て、松浦川沿いに走ると唐津市街に入る。山本駅は明治30年の半ばごろ祖父が駅長をしていて、親父はそこの官舎で生まれたのだそうだ。明治38年の冬。そのあと諫早へ転勤したらしい。祖父はよく松浦川のコイ捕り名人・まーしゃんの話しをしていたのを思い出す。武田先生は2005年ころから唐津くんちに招かれていて、くんちで知り合った人や佐賀大で教えた学生の実家とも近しくしている。今度も そこに泊めてもらうことに。先生の車のトランクには清酒が5本積んであり、今日午後お世話になる家に先ず配って回った。峰電器店、井上建材店、吉田和充さん、波川さんなど。先生と唐津を繋いだのは、2003年だったか日韓共同干潟調査の際、唐津の中村牧師と吉村先生が参加したことがあり、その縁と教え子の家のリフォームをしたのが、先生の自宅をリフォームした夢木香だったことで繋がったわけだ。僕と長谷川さんは曳き山が通る道路のところで降りて曳き山を撮影することにして、先生は酒を配って車を駐車場に入れることにして別れる。唐津神社の例祭の曳き山は国の重要有形民俗文化財に指定されていて、豪華な14の曳き山がお旅所の浜明台へ向かうのだ。初めてのことで撮影ポイントがよく判らなかったが、お旅所へ向かう曳き山が回って駆け抜ける角のところで撮影することにした。長谷川さんはどこかへ消えてしまった。僕はカメラ2台だからフットワークはあまり軽くはないので、動かないことにした。曳き山が半分ほど通り過ぎたころ武田先生から、そろそろくんちのご馳走を食べに行かないかと電話があった。慌てて長谷川さんを捜すが見当たらない。仕方がないから唐津神社の方へ歩いて行くと、人手が多くて急ぎ足では歩けないほどだった。鳥居の脇には懐かしい”お化け屋敷”が興行していて、さかんに呼び込みをしていた。 長谷川さんはなかなか見つからないから、先生にその旨電話して元の場所に引き返して曳き山が全部通り過ぎるまで待つことにする。曳き山がお旅所の方へ向かい見物人も少なくなったので、最初の場所へ行くと、長谷川さんが手を揚げたのでほっとした。すぐに武田先生に電話をして合流すべく、旧唐津銀行の建物へ急ぐ。時計を見たら15時を過ぎていた。(つづく) ![]() ![]() ![]() ![]()
Ⅰ0月18日(火) 16日に瑞穂町の頓宮際に行って大村に泊まっていたら、17日の朝から北鹿島三部の北村さんから「今五の宮さんの獅子舞の来とるよ」電話がある。「大村にいるからすぐには
戻れないです」と言うと「あとで区長さんのところに祝儀を二千円ばかい筒んのでもって行って」と。あとで聞くと12日の注連縄立てから18日の注連縄倒しまでの1週間、赤獅子と青獅子は北鹿島の千軒のどの家々を門付けして回るのだそうだ。獅子舞いの踊り手に選ばれた4人は大変だ。お下りとお上りのときにも舞って、あと一日200軒ほど門付けをして回らなければならないのだそうだ。17日の夕方我が家に戻って玄関のカギを開けようとしたら、戸のの桟に緑と赤の房のようなものが引っかかっていた。何だろうと思って手にとってそのまま郵便受けの上に載せたのだった。後でよく考えてみたら獅子舞がきた証拠として面のひげの部分の繊維を挟んでいったのではないかと気付いた。それで土間の上り框に置いている招き猫の耳にひっかけたのだった。本来なら神棚に供えるべきなのだろうが・・・井手の吉田さんに電話をして尋ねると、今朝は当番の土井丸の区長さんの家では注連縄倒しをするから、獅子舞いをやってるはずだと教えてくれたので、8時半ごろ家を出て自転車で土井丸へ向かう。塩田川の堤防を上り五の宮神社の鎮守の森の方へ進む。見覚えがあるお寺のところへ来るともう注連縄を張ってあった大きな妄想竹は重機を使って倒しているところだった。だから獅子舞の奉納は終わっていた。区長さんがいたのでご祝儀を渡す。自転車で戻ろうとしていたら、近くの家の庭から「わぁーわぁーわぁーっ・・・・」と獅子舞いの掛け声が聴こえてくるではないか。慌ててその家の方へ自転車で向かうと家の玄関先で赤獅子と青獅子が舞っていた。最後は玄関から中へ入って土間で舞っているようだった。縁側から座敷に上がって舞うこともあるようだ。 出てくると家の人が「被せてください」と言うとそれぞれの獅子の面を頭の上にかざす。家内安全・無病息災を願うわけである。二人の先導役の一人が家人が差しだすご祝儀を受けとって次の家へ向かうのだが、続けて三軒ほど回ると舞い手の四人は息が上がって汗だくになっていた。昔は酒も振舞われていたから大変だったそうだ。家と家の間が離れている場合は、舞い手と面は家トラックの荷台に乗って移動していたが、車がなかったころは歩いて回っていたはずだ。一〇軒ほど回って元区長をしていた大きな構えの家に着くとひとしきり舞うと家の中に入って二十分ほど出て来なかった。喉をうるおし軽く食事をしたのだろう。出てきたとこrで先導役にお願いして四人の舞い手と二人の先導役を撮らせてもらった。 一時間あまり追いかけただろうか。そのあとは北鹿島の氏神の五の宮神社へ行ってみた。ちょうど氏子の人が数人幡幕を外したり濡れた幟を干したりしていた。可なり歴史がある神社のようで、奈良時代の建立と説明板には書いてあった。14日がお下りで16日はお上りだったが、14日の夜は雨だったので撮影は断念、16日は先約があったため諦めた。来年度は僕が住んでいる三部地区が獅子舞を奉納する判に当たっていると聞いているので、練習の様子から撮影できそうだ。 吉田さんは井手の獅子舞の指導をしたこともあるようで、獅子のことが詳しい。地区に寄って掛け声も所作も微妙に違うと教えてくれた。掛け声も土井丸は「わぁーわぁーわぁーっ・・・」だったが「やぁーやぁーやぁーっ・・・」とか「ばぁーばぁーばぁーっ・・・」というところもある。舞うときに舞い手が顔を見せるのは練習不足だとかいろんなことを教えてもらった。赤獅子が♀で青獅子が♂だそうで「二匹の獅子が首を延ばしてじゃれ合うような者差をするが「シラミとり」と呼ぶのだそうだが、吉田さんは「あれは交合を表しているのではないか」と言っていた。子ども獅子舞もあり、幼稚園生などが演じているが可愛いものだ。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 子ども獅子舞い ![]() ・・・・
10月16日(日)、去年から雲仙市瑞穂町の八幡宮の奇祭”屯宮祭”を撮りに来ないかとUクンに誘われていたのだが、去年は他の行事と重なって実現しなかった。今年こそはということで連れ合いと一緒に参加することに。7時の列車で諫早へ向かい、長崎本線に乗り換えて湯江駅で降りてUクンが迎えに来るのを待つ。8時半過ぎに車に乗り込み締め切り堤防道路を対岸の雲仙市へ向かう。天気が良くて雲仙も多良山系もよく見えた。中央の展望所で車を停めて展望台へ。堤防の内側にはカモがちらほらと渡ってきていた。
![]() 大衆駅を過ぎてから右へ入りしばらく走ると幟が数本立っている家が見えてきた。屯宮祭で神様役をする人の家だそうだ。伊福八幡宮の手前の家の門口には幟が数本立ててあり、坂を上って行くともう近所の人や親せきの人たちが集まって祭りの準備をしていた。庭先にはテントが張られ、テーブルにはご馳走が並べられていた。神様役の6人衆に選ばれた家では、出発する前に儀式をしてそのあとは宴会に。50名以上の人た陽が、座敷とテントにつくられた席について昼間から大宴会が始まった。Uクンがご祝儀を包んでくれていたので、僕らもテントの席に招じ入れられビールや酒と鉢盛りのご馳走をいただく。正午ごろになると若愛男性たちが旧宅に入り女装を始めた。神様を載せたリアーカーを曳く人たちだ。ここ宮嶋家では職場の同僚や同級生が曳き役に回っていた。 屯宮祭の起源は400年昔に遡るようで、宇佐八幡宮から分神をここ伊福まで運んだ6人衆を讃える祭りで、併せて五穀豊穣、子孫繁栄、家内安全などを祈念して行われてきたようだ。出発の挨拶があり、神様になった当主は抱えられてリヤカーに乗り込み、賑やかに出発して町内を巡り歩くのだ。何人かのお供のものは、酒を入れた竹筒を提げていて、出会った人たちに酒を振舞うわけだ。神様は地面に足を付けてはならないという約束事があって、祭りの間の三日間は乗り物に乗るか背負われるか抱きかけれなければ移動できないわけだ。それぞれ6台の神様を載せたリヤカーは、町内を曳き回されて1時間ほど経ったら神社の下に集まり、あとは一気に境内へ引き揚げられ、神様は神社の中へ担ぎ込まれて、神事が始まる。そのあと6人は中で飲み明かすことになるらしい。二日目も神事があり、三日目は子ども相撲などが奉納される。それが終わるまでは神様は我が家へは変えられないのだ。 神様が神社の中へ入って神事が済んだので、僕たちはUクンの知り合いの宮本さん宅を訪ねることにする。2年前に古い民家を浜松建設に依頼して改装した家で、いい感じに改装されていたが、可なり経費が掛ったであろうと思われた。ご主人は転勤族のサラリーマンだが、奥さんの実家を改装して住むことになったのだと。奥さまはご主人の作業部屋(木工)を雑貨を扱う店舗にして金土日の三日間開けている。家の見学を兼ねて訪れる人が結構いるようだ。連れ合いも気に入った小鉢とペーパーウエイトになる石を買った。ご主人は木工をするための作業場と車庫を建てていて、バンドソウが作業場の真ん中に鎮座していた。テーブルや椅子も作っていると。座敷に招じ入れられ、美味しい珈琲とお菓子を戴く。部屋の中が整頓されていて気持ちがいい。我が家はこうはならないだろう。まだ小屋の改装の見積もりは来ていないから、いつから着工するのか気になる。来年の4月までには住めるようにしてもらいたいのだが・・・ 16時過ぎにまた堤防道路を通って湯江駅まで送ってもらい、夕暮れ迫る有明会を眺めながら鹿島の我が家へ。今日は久しぶりに楽しく撮影ができた。 ![]() 挨拶をする神様・6人衆の一人 ![]() 出発前の祝宴 ![]() 和太鼓のアトラクション ![]() 仮装した曳き手たち ![]() ・・・ ![]() 神様は集落内を曳き回される ![]() 孫と一緒の神様 ![]() 神様は背負われて社殿へ ![]() 社殿に集まった六人衆、これから二泊三日のお籠りがはじまる
10月31日(月)、6時過ぎに目が覚めると、東側の窓が真っ赤になっているではないか。飛び起きてカメラの2台(E5とPENTAX645)を肩と首に掛けて自転車に跨る。もう東の空の色はピンク色に変わっていた。あと5分早く起きていたら・・・。あとは堤防に行って陽が昇るのを撮ることにする。船着き場へ降りる階段のところへ上がりお気を見るとまだ干潟が残っていて東の空の色を映していた。E5のシャッターを数回押したら電池切れの赤い警告マークが・・・。あとは645Nで撮ることにする。太陽が柳川方向の山の葉から顔を出し始め、光芒が「干潟に黄金色に反射する。E5のスウィッチを入れると電池の表示が緑になっていたので、シャッターを押す。二回押したらまた赤い警告の表示に・・・。実は慌てて家を出てきたため、いつも方に掛けている電池やメディアが入っているバッグを忘れていていたのだ。なんというkとだ。急いで家に引き返し朝飯を書き込んでから、トヨスーパーグラフィックに6X12のフィルムホォルダーを付けて、今度はリアカーに三脚やフィールドスk-プなども積み込んで堤防へ急ぐ。
![]() 半時間h土時間が経っているからもう潮は可なり満ちて来て干潟の面積は狭くなってきていた。今度は下へとよスーパーグラフィックももって捨て石に降りて、可なり紅葉しているシチメンソウの群落の方へ急ぐ。雨と潮で捨て石が濡れていて足もとが不安定だ。ようやくシチメンソウに近づき、カメラ3台でシチメンソウを撮影。トヨスーパーグラフィックは、距離計は付いているから、目測で測って合わせて、露出計をつかって露出を決めてからシャッターをレリーズして、手持ちで撮影。いささか不安なので露出を少し変えて同じシーンを2まいずつ撮影した。120のフィルムでは6枚しか撮れないから、フィルムを入れ換える。645NとE5でも数ショットずつ撮ってから堤防へ引き返し、リヤカーに機材を積み込んで新篭の野鳥観察の展望台の方へ井戸をすることに。 途中で定点撮影をしているとこでも堤防に上がり撮影。下の干潟に小さなシチメンソウの群落があるので降りて行って撮影する。次の邸点の竜神さまの祠があるところでも堤防に上がって干潟を覗くと、なんとクロツラヘラサギが2羽潮が満ちてきている干潟にじっと立っているではないか。嘴を背中に埋めていあたが、僕の動きが気になるのか頭をもたげた。まさにスプーンのようなくちばしをしていた。下へ降りて少し接近して撮影。しばらくすると潮が満ちてきたためか塩田川の河口部の方へ飛び去った。毎年浜川の河口部の中州に30羽前後が渡ってきて越冬するので今年も来ているかもしれないと思って、家に戻って昼飯を食べずに市役所の前の”ならの樹”へ向かう。自転車を店の横に停めて中を覗くと日本野鳥の会員で市役所に勤めている宮崎さんがいるではないか。実はこの店のマスターから宮崎氏は昼食はここの弁当を食べているということを聞いていたから、昼休みの時間帯に行けば会えるかもしれないと期待していたのだ。早速弁当祖注文して同じテーブルに座り、クロツラヘラサギを2羽新篭海岸で見たと話すと、彼も数日前3羽見たと教えてくれた。今年は冬鳥の渡りが遅れているようで、ズグロカモメはすこし来ているが、ユリカモメはまだ渡ってきていないと。シギチドリも遅れいるが、東与賀海岸ではダイゼンやオバシギが来ていると。ハマシギも可なり渡ってきているらしい。新篭海岸では今日30羽前後の群れを見ただけだ。 トヨスーパーグラフィックのフィルムパックのフィルムを詰め替えてから、浜川河口の船溜まりを目指す。INAXnの工場の横から入り踏み切りを渡って浜干拓地に入り浜大橋の方へ向かってペダルを漕ぐ。ようやく橋を渡り船溜まりに着き、眼鏡で中州や干潟を捜したが、クロツラヘラサギの姿は発見できなかった。エビ流し網の船の積み込んである網の色が鮮やかだったので、6X12で撮影していると携帯が鳴った。出てみると長崎の時津さんだった。今どこかと言うので浜の船着き場だと返すと「近くに来ているので行きます」と言う。しばらくすると車が近付いてきた。「すぐ近くの防波堤にクロツラヘラサギが9羽いますよ」と言うではないか。早速堤防が見えるところへ移動すると、堤防の上で潮が引いて干潟が現れるのを待っているようだった。彼も今日クロツラヘラサギのことが気になって来てみたのだと。 飛び立つところと干潟に降りた姿を撮りたいというので、潮が引くまでしばらくお互いの近況を話す。大浦の平方さんを最近博多のリハビリ病院に見舞ったが、順調に回復に向かっているが、、時間が掛るだろうと。春から新しい仕事に就いていたが、9月で辞めたそうだ。しばらく失業給付を受けながら様子を見ることにすると。こういう世情だから再就職は難しいだろう。次々に飛び立って干潟に降り出したので、韓田川から撮影するために移動する。彼はNkonのED82スコープにD50を付けて撮っていが、被写界深度が極端に浅いので、ピントを合わせるのが難しいと。僕の840mmの二倍の焦点距離になっているはずだから、1600mmはあるのだろう。彼は東与賀海岸へ行ってみると言ってでかけて行った。僕はしばらく残って橋の上から夕暮れ時の干潟を撮影してから帰途につく。家に就いたころは辺りは暗くなっていた。昨日のすき焼きの残りにうどんを入れて食べながら残っていたワインをチーズをかじりながら飲む。うどんはワインとはミスマッチだが、勿体ないから止むを得ない。 ![]() シチメンソウの群落・塩田川河口部の干潟 ![]() ・・・ ![]() クロツラヘラサギ ![]() ・・・ ![]() ・・・ ![]() ・・・ ![]() 浜川河口部の堤防で潮待ちをするクロツラヘラサギ ![]() 浜川河口部の干潟
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